ブローニング銃の60%を担う
それが世界のミロクたる所以

たとえミロクの名を知らない人でも、ブローニングは知っていることだろう。 ミロクはブローニングの上下2連式のショットガン、ボルトアクションライフルを始めとする 8機種を100%、さらにウインチェスターライフルの一部を作っている、量・質共に 世界的トップメーカである。ミロクとブローニングの関係は深く、1966年にまで遡る。 当時の日本製品は安かろう悪かろうの時代だったが、その中に於いてブローニング社は ミロクの技術を世界一流と認めたのである。

ミロク銃の生誕と企業としての黎明期

 社名となったミロクの由来は、創立者の弥勒武吉(ミロクブキチ)からきている。 武吉の生誕は1890年だが、その2年後の1892年、武吉の父、 弥勒蔵次(ミロククラジ)が独自の中折れ銃を製造し、それが弥勒銃の原点となっている。
 ミロク製作所の英名はB.C.MIROKUであるが、それは初代社長武吉のBと、2代目社長井戸千代亀の Cによって命名されている。千代亀は武吉に弟子入りし、その後2人で1946年にミロク工作所 (ミロク製作所前身)を立ち上げている。 実はこれ以前にも日本精機という会社に係わっており。1917年コルト型拳銃や 1945年村田単発銃に似た本土決戦銃などの生産にも携わっていたのである。
 ミロク設立当時、猟銃製造はGHQにより禁止されていたため、 主力製品は武吉が開発した捕鯨砲であった。しかし1951年に猟銃生産が解禁になると同時に 早速単発銃の生産に入り、川口屋林鉄砲火薬店(K.F.C)を通して販売された。 そして翌年には水平2連銃、さらに1961年には上下2連銃の生産に入った。 その開発は武吉と長尾米治はミロク最後のガンスミスとも言われている。
 1960年から国内のガンブームが起こり、永らく20万人に満たなかったハンター人口が 10年で3倍になった。その時期、国内の他業者は国内向けに銃を大増産していたが、 ミロクは将来を見越して海外有名ブランドと提携する以外ないと確信し、時期が来るのを待っていた。

ブローニングとの提携とニッサンミロクの設立

 1966年、期は熟し米国ブローニング社と販売技術提携が結ばれ、シングルトラップ銃と レバーアクションライフル銃が生産され輸出された。 1970年にはベルギーFN社とも提携を結び、ここに3社の協力体制が確立された。
 その後1972年には日本油脂との合弁でニッサンミロクという販売会社が設立され、 川口屋の時代を終えた。日本油脂はH2ロケットのブースター用の火薬も作っている会社である。 川口屋とのルートが切れたことで、ミロクの上下2連銃もブローニングタイプにモデルチェンジし、 これ以降一段とミロク銃=ブローニング銃となっていった。

国内メーカーの倒産と国際再編成
そして現在のミロクグループへ

 1979年には国内のハンター数も急速に減速し始め、ガンブームは終焉に向かった。 その後、晃電社などの国内銃メーカー倒産が相次いだが、ここに来て海外に目を向け 一流メーカーと提携したミロク路線の正しさが証明されたのである。 とは言え、この時期は世界的に見ても多くの有名メーカーですら大変な時代となっていた。 ペレストロイカは世界の兵器産業を大きく変貌させたのだ。1991年のフランスのGIA社は FN社を買収し、自動的にブローニング社およびウインチェスター銃を製造している ユスラック社を傘下に収めた。 それでもミロクとブローニング社との関係は固く、大きく変わることはなかった。
 現在ミロクグループはミロク製作所と協力12社を含め、銃関係が900人余り、 ガンドリルなど銃器周辺の特殊機械の販売や加工で400人の合計1,300人余り。 年間の生産量は12万丁で、そのほとんどが世界中に向けて輸出されているのだ。

潟tォーバイフォーマガジン社 発行
スポーツガンガイドブック2004掲載記事より抜粋